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【社長ブログ】「言い訳ダイバーシティ」
2018-04-20
人の言い訳の仕方って千差万別です。
普段は賢い会話をして、卒なくこなす人も、急場の「言い訳」に、その人の本質が見えてきます。
「もう、それは嘘じゃん!」ってヤツから、「なんか気持ちはわかるなぁ。」ってヤツまで。
その言い訳をタイプ別に分類してみます。分かりやすいように、例題に「ウ○コを踏んだ」時の言い訳で考えてみましょう。
 
例題 「ウ○コを踏んだ時の言い訳」
 
■タイプ1 病気型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「は? 何言っとんだ? 踏んでねぇって。」
 
これね。 完全に嘘をつくタイプ。
靴にウ○コが付いてるのに、なお「踏んでない!」と言い張るっていう居直り強盗のような人ヽ(;▽;)ノ
 
更に加えて
B.「踏むわけねぇやん!なんで踏まなあかんねん!踏みたいヤツおるか?」
と、もっともらしいことを、付け加えたりします。 
逆ギレのように勢いを利用して、押し通そうしてきます。
100人の目撃者がいたら100人ともが「あの人ウンコ踏んだ。」とわかってるのに。
 
果たして本人は、本当に踏んでないと認識してるのではないかとさえ感じさせる徹底ぶり。
しかし、それならそれで病気だし、嘘をついていても病気の部類なので、どの道、
お医者さんに相談しかないですね。
 
皆はもう慣れて、めんどくさいので「あなた、ウ○コ踏んだでしょ?」とは確認しませんが、
心の中で疑念と不信感が生き続けます。
本人は誤魔化しきった!と思ってるかもしれませんヽ(;▽;)ノバイバーイ
 
 
■タイプ2 聞こえないスルー型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「え?」
A.「いや、今ウ○コ踏んだよ。」
B.「何が? え?」
A.「いや、今ウ○コ踏んだよ。」
B.「え? 誰が? ん?」
A.「いや、君が。」
B.「え? 何で? 何? え?」
A.「いや、もうええわ。」
 
これ多分かなり傷つきやすい性格なんだと思います。
幼少期から過度なストレスから逃げ回って、後始末に親のすねをかじってきたタイプ。
マザコンで未婚が多い。
付き合うのが面倒くさい。
 
 
■タイプ3 認めるの早すぎる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「はい。踏みましたね。」
 
踏んだことは認めるんです。
でも反応が早すぎる。
「うわぁやっちまったぁ。」っていう反応が抜けてるんですね。
踏んだ瞬間、もしくは踏みかける瞬間からいろいろ頭を巡らせて考えて、
恥ずかしさをすっ飛ばすつもりなんでしょう。
このタイプはキャバクラより風俗を好む傾向にあります。
過程より結果重視。現代っ子。
 
 
■タイプ4 みんなやってる型
A.「おい君、今ウンコ踏んだよ?」
B.「〇〇君も踏んでましたよ。」
 
ワケのわからない「他人も踏んでた」みたいな言い訳をするという。
「みんなも踏んでる」ちょっと流行ってますよ感を出すヤツ。
いや、その言い訳おかしくないか?みたいな。
赤信号を皆で渡ろうとは違うよっていうかね。
主体性抜けすぎ!いやいやウ○コ踏んで臭いのお前やでってね。
 
 
■タイプ5 用意されていた最高級の言い訳型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「ウ○コ踏み健康法ご存知なかったですか?。」
 
「絶対用意してたやん!」というヤツ。
ウ○コを踏むことを想定してたのか、不運系の言い訳を考えていたのかわかりませんが、
頭の回転も早く、場も乱しませんが、個性が強すぎて怖い。
滅多にない言い訳の引き出し何個持ってんの?
 
 
■タイプ6 その場の最高級の言い訳型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「はい。 気づかれましたか?」
A.「気づくよ。 早よ拭いたほうがいいよ。」
B.「はい。 でも拭きません。」
A.「え? なんで?」
B.「あえて。」
A.「あえて?」
B.「Aさんにずっと笑ってもらいたいからです。
  最近のAさん笑顔少なくって何かあったのかと思ってたんです。
  でも今笑顔見れて嬉しいっす。」
A.「あ・・ありがとう・・」
 
絶対嘘ってわかってても許せちゃうというか、許されるまで言い訳を見つけ続けるというか。
まぁでも個性強すぎて、ある意味怖いな。
 
 
■タイプ7 注意してくる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「そんなん今言わなくていいやん!」
 
あっ、ごめんなさい・・・
 
 
■タイプ8 何にキレてるのか分からない型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「は??! ぅわっ!!! 最悪っ!! 何なんコレ?! 
  何で!?? まじ腹立つ! なっんだぇ!オラ!!」
 
これはウ○コに怒ってるのか、ウ○コをした人に怒ってるのか?
注意したAさんになのか、踏んだ自分に対してなのか?
最近の不調をためこんだ怒りなのか?
「ロックンロールッ!!」って叫んでもいいんじゃないかな。
 
 
■タイプ9 聞いてくる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「え? 何すかコレ?」
 
いや、ウ○コだろ。それは。
 
 
■タイプ10 褒めてくる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「え? ホンマだ!最悪!・・・・でもよく気づきましたね?
  俺ぜんぜん気付かなかったです。サスガっすね・・」
 
いや、それほどでもないです・・・
 
 
■タイプ11 ここで何を求めてんの?型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「そうなんですよねぇ・・・・・・踏んじゃいまチた~ヽ(´▽`)/ テヘペロ」
 
お前、もしやこんな逆境の中でも、「カワイイ♥」って母性本能くすぐろうとしてない?
ピンチをチャンスにって言うけども、それは厚かましすぎるわ!
ってか男しかいねぇし!!
こえぇわ。 その慣れた感がこええぇわ!
 
 
■タイプ12 静かにキレる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「クソぅ・・チッ・・・」
 
ウ○コだけにクソってね。
 
 
■タイプ13 根本を問うてくる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「ウ○コって踏んだらダメなもんやったんですね。そんな汚いもんですかね?」
 
いや、汚いやろ。
 
 
■タイプ14 無気力型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「あ・・・・・・はぃぃ・・・・はぁっ・・。」
 
生きて!もっと自分を生きて!!
 
 
■タイプ15 堂々としてる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.「おぅ、踏んだな。」
A.「・・・・・・。」
 
いや、気にされてないんならいいです・・・すんません。
 
 
■タイプ16 靴を捨てる型
A.「おい君、今ウ○コ踏んだよ?」
B.(靴を大きな川に投げ捨て、無言で片足が裸足のまま歩く)
 
15年前に実際に私がやりました。恥ずかしさに耐え切れなくて。
あの時のレッドレザーのジャックパーセルは元気でやってるかな・・・ごめんなさい。
 
 
 
【社長ブログ】「挨拶は目を見ることが大切だよ運動」
2016-08-12
■ 最近の若者は挨拶をしなくなったのか?
 「最近の若者は挨拶をしなくなった。」と、まぁまぁ耳にします。
でも実は注意深く観察すると、おっさん達もあまり挨拶をしません(笑)。世代の問題ではなく、個人の問題ということです。しかし、38歳の私が語るのも変ですが、昔の方が「挨拶をすることは当然」という考え方が社会全体に浸透していた様に思います。
 戦後は日本社会全体が「豊かになる」という一つの目標に向かって一丸と猛進していて、挨拶に限らず常識というものが国民全体で比較的に似ていたのではないでしょうか。共通の認識があったから、例外な人に対して断罪しやすい環境だったように思います。
 時代の変化に伴い、ごく一般的な「コラコラ。ちゃんとせんな先生に叱られるぞ。」という注意も、「ちゃんと」という観念が今や違ってきていて困ります。「先生」も、たまに一般人よりも非常識な人がいて困ります。そんな人に「叱られても」何とも思いませんなんて・・困ったもんです(笑)。社会通念は変化するのです。
 今、授業参観日に子供に「なんで挨拶しなくちゃならないの?」と聞かれた先生は「挨拶はするものなの!」とは、なかなか言いづらい環境です。まして殴ってでも挨拶させるなん許されませんし。一昔前ならそういった躾もよく目にしました。この20年程で、良くも悪くも生き方が多様化しきたわけです。
 「ボス型社会からリーダー型社会へ」なんて言われてますけど、まだまだ田舎地域や裏社会にはボスが健在です。とは言え、ボスになる人は基本的に能力が高く、影響力の強い、筋を通した信頼の厚い人間です。そのボスが今の世相を憂い「最近の若者は挨拶をしなくなった。」というのです。ボスは常に社会情勢に敏感ですから。きっと昔から挨拶のできない大人もいたのだと思います。ただそういう大人は“できない奴”、“ダメな奴”、“よくわからない奴”というレッテルが貼られていたのだと思います。今はレッテルが貼れず、挨拶ができなくても、“けっこうできる人”がいますから、ボスはイライラしているのではないでしょうか。
 「仕事ができない奴はダメだ」という概念は「仕事=人格」だった時代の言葉かもしれません。平和になった今、パソコン社会になった今、人格に多少問題があっても飯を食うくらいはできる社会ですから。人格形成を大切にしていた日本で、挨拶もできない金持ちをどう断罪するのか「何が是か簡単には判断しかねる社会」になってきています。
 あと、知らない人に挨拶をすると危険ということもあります。もうこの段階で日本も格差社会です。誰がヤバイか特定できない場合や地域に認識されない場合は、ビバリーヒルズに住むしかありません。
 まあいずれにせよ、挨拶は皆がするもの、挨拶できない奴はダメな奴という社会から、挨拶が必要だと思う人は挨拶するし、したくない、する必要がない人はしない風潮を許容する社会になってきています。
 
■ 幼少期の挨拶
 子供の頃から先生や親に「挨拶しなさい。」と言われて育ってきました。「なんで?」なんて思わずに当たり前に挨拶をしてきたわけです。挨拶立ち番のように朝早く学校へ行き、登校してくる友達に元気よく「おはようございます!」と挨拶をして、相手の挨拶を促すわけです。当時は特段意識してませんでしたが、振り返ると「少しめんどくさいな。」とは感じていたように思います。大人達に褒められるし「まっ、いいか。」くらいで挨拶を大きな声でしてきました。
 しかし、青春期以降なんだか“こっ恥ずかしくて”だんだんと挨拶が出来なくなってきます。女の子の目を見るのも恥ずかしい。もう誰とも目線を合わせたくない。何故なのか。きっと心を開きたくなかったんでしょう。何故なのか。自分の本音をぶつけたにも関わらず誰も理解してくれなかったり、興味を示してくれなかったという、今から思えば小さな挫折の積み重ねなんでしょうけど。こんなに人から受け入れらえないということは自分が失格なんだなとか思ってしまうわけです。10回成功してるのに、1回の失敗で挫折してしまうところが、青春です。数字よりも、感性ベースです。
 社会人になっても同じでした。しかし挨拶はできました。「社会人なんだから」という常識に背中を押されていたんです。挨拶=常識が自分の中にあったことは非常に助かりました。教育や躾の賜物です。しかし、心の奥底では、なんかメンドクサイし嫌だなとは思っていました。そんな精神的に細かい問題を、先輩になんとなく相談してみても「大人なんやから。」とか「社会人なんだから。」という言葉が返ってくるだけです。「そうですよね。」「そうですかね。」と返答するだけで、腑には落ちません。これ以上質問をすると逆ギレされたり、難しい奴と認識されるのも叶わないので「この人、こういうところアホだな。」と自分の中で処理していたわけです。
 幼少期は、大きな声で挨拶をすると大人に褒められるという満足感から、挨拶をしていたように思います。青年期は社会人だから普通やなという社会的信用を増すための常識に縛られて挨拶をしていました。それらは、いわゆる外的モチベーションであって、ご褒美が無くなると続きません。それを府に落とし、内的モチベーションに変えれば大人になっても継続可能なわけです。
 大人になってから“変わろう”と思ってもなかなか変われない。その意味や意義、そして効果を推し量って「変わるに値するか」値踏みしてしまう。そこで挨拶の意味を、大人になった今調べてみようと思います。
 
■ 挨拶の意味と意義
 意味を考えてから、意義を考えようと思います。まずは意味から。  
挨拶って普段使わない漢字です。語源としては「挨」も「拶」も押すという意味で、禅宗において相手の悟り具合を推し量ることを「一挨一拶」と言ったそうです。ん? 現代の挨拶と関係あるのかな?って感じです。  
 挨拶と言えば「お早うございます。」「こんにちは。」「こんばんは。」などが代表例です。「こんにちはございます。」「こんばんはでございます。」とは言いません。こんにちは、こんばんはに続くのは「時節」そして「相手の調子」を尋ねることのようですが、省略されてるんですね。手紙でよく見ます。日本人は天気(日柄)を気にして、相手を気にする繊細で、自然と共存してきた民族なのかと思ってちょっと誇らしい気分になります。  
 そういえば、おじいちゃんが近所のおばあちゃんに会った時に「どこまで行きなるん?」と尋ねられ「ちょいとそこまで。」と答えてました。すると、おばあちゃんが「ぼちぼちな。」と更に返答していました。よく考えたら何?会話になってないけど成立しているという・・・。そう考えると挨拶とは相手の調子を伺う「思いやりを表すこと。」なのかもしれません。挨拶は、それ自体に意味は無いけれど、その効果として皆が何故か「気分がよくなる」という普遍的なものかもしれません。
 挨拶という概念は世界共通だそうです。タイには以前「サワッディー(こんにちは)」という挨拶はなかったらしいですが、「どーも。」「飯くった?」的な挨拶言葉はあったそうなので世界共通と言ってもいいでしょう。
 初対面の挨拶に「握手」がありますが「武装解除」の意味であり、ヤバイ武器とか持ってませんよということなのですね。わかりやすく言うと挨拶は「自分が心をひらき、相手も心を開きあう関係をつくる動作」と言えます。
 試しに、動物はどうなのか調べてみました。けっこう挨拶してます。昆虫もやってます。個体としての健康状態を表現したり、エサの位置を教えたり、エサのクオリティを伝えたりと、人間よりも生活に密着した挨拶となっていました。
→参考URL http://logmi.jp/92644
 
■ 会社で挨拶する意義
 挨拶は「自分が心をひらき、相手も心を開きあう関係をつくる動作」と言えるので、会社内でもものすごく意義深いものであります。当然、企業理念やビジョンやミッション、人、モノ、金、情報、戦略戦術は大切ですが、実際に会社を動かすのは人であり、人と人の狭間に信頼関係があるのと無いでは、結果がかなり違ってきます。この信頼関係を築く第一歩目が挨拶ではないでしょうか。
 単純な話ですが、自分が好きになれば、相手も好きになります。自分が心を開けば、相手も心を開きます。勿論、中身が問題ですが、信頼関係の構築の第一歩目として挨拶はかなり上位にランクインしてきます。
 弊社では第40期の行動指針に「相手の目を見て自らが笑顔で挨拶します」と決めています。Give & Take 自分からGive しないとTakeは貰いにくい。自ら先手で挨拶をすることは大切です。慣れると余裕でできます。だから頭で論理的に「挨拶はするもの」と処理しないように「目を見て」を付け足しています。また挨拶は義務と思わないように本来の心を開くという意味を込めて「笑顔で」を付け足しています。  
 3年ほど挨拶運動を会社で推進していますが、コミュニケーションが増え、良くなっている気がします。気がですが。  
 挨拶の意味や意義はともかく、効果は皆肌で感じられてるのではないかと思います。会社内では、相手の目を見て自らが笑顔で挨拶をしています。たまに忘れてる時もありますが、だいたいできています。果たして会社外ではできているのか?自らの営業戦果に関わりますから、顧客に対しては挨拶ができているでしょう。しかし、顧客以外に対してできているのか?直接的に自分のメリットにならない人にでも同じように接することができているのか?それは、営業の戦果というよりも、企業理念の最終文にある「信頼を獲得し、実りのある人生をおくります。」に関わる重要事項です。これを調査できる仕組みはないか。しかも皆が楽しみながら。企業家は数字が大切なので数字で図ってみることにしました。
 
■ コンビニで目を見て挨拶する  
 そうだ!コンビニ店員を挨拶対象にして調査をしよう!と試みました。その他のサービス業も考えましたが、絞ったほうが分かりやすいのでコンビニ店員限定にしました。期間は7月14日~8月4日の21日間。標本調査にならない中途半端な母数ですけど。私を含めた社員の内12名の合計13名が①コンビニに行った回数 ②自分が目を見て「ありがとう」と言った回数 ③店員が目を見て「ありがとうございました」と言った回数 でカウントしました。集計結果は・・・  
 
① コンビニに行った回数・・・180回  
 
② 自分が目を見て「ありがとう」と言った回数・・・166回  
 
③ 店員が目を見て「ありがとうございました」と言った回数・・・63回  
 
コチラが目を見て、相手も目を見てくれた確率は38.0%
 
となりました。  
 コンビニ店員って目を見て「ありがとうございました。」って言わないんだなというのが率直な感想です。調査をした地域にはファミリーマート、ローソン、ミニストップしかありませんので、この3社のマニュアルには「ありがとうございました。」と言いなさいはあるけれど、「目を見て」というマニュアルは無いのだなと思いました。  
 私自身は一日に2回以上はコンビニに行くのですが、コンビニに行く回数の平均は0.65回で、社員はほとんどコンビニを利用しないのだということも分かりました。  
 調査上、②をしていないと③がどうか分からないですが、180-166=14の38.0%なので約5.3回は③の回数も増えるでしょう。  
 自分がコンビニ店員の目を見なかった主な要因として「忘れていた」、「財布を見ていた」が挙がります。企業戦略においてよく「徹底」と謳っても、意識していても92%(②÷①)の出来高であり、8%くらいのロスが出るわけですから、それを数字の中に入れて予算組みをするか、うっかりミスさえ無くなるような更なるオペレーションの強化を行う必要があります。  
 さすがにコンビニ店員が「ありがとうございます。」と言わないケースは無かったですが、「目を見て」言わない要因を各ケースから社員に予測してもらうと、「身長差がある場合は目線を合わせるのがキツイのでは?」だとか「いい年をして若者に混じってコンビニで働いていることを恥じているのでは?」などが挙げられました。38%という数字ですが、人によってバラつきがあり、威圧感のある男性は目を見られにくい傾向にありました。ちなみに私は22.2%です。5人に1人しか目を見てくれません。  
 逆に何故目を見てくれたのかという要因を予測してもらいました。「行きつけのコンビニだから」、「知った人だから」とか「雑談からのありがとうございますだったから」などが挙げられました。いかに馴染みの関係が心を開いているか、雑談が心を開くかということです。商談においても初対面か固定客か、本題に入る前に雑談をするかしないかという選択で商談内容や結果が変わってくることは明らかです。  
 そういった業種に関係の無いコミュニケーションの大切さを肌で感じてくれればありがたいなと思います。
 
■ 運動を行うということ
 挨拶は目を見てする方がいいと私は思っている。心が開かれ、信頼関係が築かれ、そのつながりが個々の幸せにつながっていると信じているからです。でもコンビニ店員に、1回限りかも知れないお客様に対して、自分が心を開くことはかなり効率的には悪いし、必要が無いと感じてしまうだろう。仕方がないといえば仕方がない。しかし、田舎で商売をしているからということもありますが、是非とも弊社社員には目を見て挨拶をしてほしい。そう訴えかけ続けたいと思っています。
 「運動」とは、なぜそうしないといけないのかを訴えかけることであり、決して表面的に世が求めていることを満たすことではない。ニーズを把握していないのではなく、真のニーズというか、感覚より少し深いところにある上質なものを訴えなくてはならない。ガンガンに即効で冷えるクーラーが発売されると必ず売れる。しかし、それが人間にとって、地球にとっていいものなのか。企業は消費者が決めることだという倫理観を背景に、我々の健康のことなんてそこまで考えない。また「人が喜ぶ」仕組みをつくるのが企業だとか言う。確かにそうなんだけど、喜ぶって、アミノ酸の旨味成分を注入したら美味い!って喜ぶからね。長期的に、あの会社の料理を食べ続けたから健康で幸せに生きることができたなんて話は聞かないからね。濃い味のお店は流行る。でも家庭ではそんな濃い味を食べたら体に悪いと注意される。
 短期的視野が思考を短絡的にするのかもしれない。長期の幸せ(在り方、生き方)が今の購買につながる仕組みがいると思いました。
 自分の生き方やあり方を見つめ直そうとしても、なかなか難しいものだから、少しだけ先を、10年先の自分を一瞬でも想像して今を決断してほしいなぁって思って運動を展開していきます。
 何か大切なものが無くなっていきそうな予感がして、なんとか頑張って抗う。流れに抵抗することでイノベーションが起こる可能性はありますし、独自性が確立されニッチ市場に受け入れられることもあります。しかし社会全体から見ればその“何か大切なもの”は利便性や、コスト、効率により失わざるをえないことが多いように思います。流れに沿うと言えば綺麗ですし、逆らうことは愚かなことかもしれない。トレンドを、流れを掴む商売をする形態であり続ければ、苦しいことは少ないかもしれない。しかし、門を構えて商いをするということは少しくらいの逆境は当たり前に受け入れ、我慢し、時に寛容に組織を変化させないといけない。しかして正社員からパートへ、若者、学生へ、外国人へ、機械化へという流れは止められない。
 
【社長ブログ】「矛 盾 ~個人的と集団的~」
2014-09-25

この『集団的』な捉え方、考え方の『存在』を知りえたからこそ、この世に無常を感じず諦観せずに生きているんだと思う。

 

知らなかったんです。『集団的な考え方』を。がんばって『個人的な考え方』を伸ばして、解釈してこの世の中を捉えようと足掻いていたんですね。まぁ、そういう学校教育だったといえばそうなんですが、どれだけ思いを巡らせても、所詮は『個人的』な思考の範囲内だったんです。

 

【例】

「なぜ運動会の行進は1.2.3.4.55で止まるのか?」

昔 → 「2」で止まれる「俺」=「3.4.5」の無駄。

今 → まぁ「5」くらいがちょうど全体がバシっと止まれるのかな。止まれない人もいるし、そうなったら全体として見栄えも悪いしねぇ。

 

「なぜ遠足の経路は遠回りなのか?」

昔 → 確かに近い道は険しいが「俺」は、なんなく進める = これくらいの険しさを歩けない奴はむしろ社会生活ヤバいだろ?

今 → 万が一でもケガしたら、責任問題がめんどくせぇー。サバイバル的なワクワク、楽しさを差し置いても、めんどくせぇーで仕方ねぇー。

 

「なぜ政治家は平然とした顔で嘘をつくのだろうか?」

昔 → 嘘がバレて逮捕される = 感受性のバリバリ高い思春期の「俺」には考えられないわ。面の皮の厚い、心の壊れた、家柄だけがよくて能力の無い鈍感な人間が政治をやってるのか?はぁぁぁこれじゃあ日本はよくならんわ。

今 → 党の命令なのかな。貸しつくってんのかな。民衆の人気よりも、派閥に擦り寄らないと選挙に通らないのかな。

 

「なぜ不始末を起こした会社のトップが謝っているのだろうか?」

昔 → いやいや、その不始末はどう考えても下っ端の人間がやったことで、トップは一応は謝罪するけど本当は「俺は関係ねぇ、悪くねぇけどな、ふんっ!」って「俺」なら思うな。

今 → 監督責任

 

「なぜブサイクな子供をカワイイ❤というのか?」

昔 → 「俺」ならブスはブス、カワイイはカワイイって言うけどな。

今 → 「カワイイ❤」って言いますね。倫理的というよりも子供は宝という観点で。

 

「なぜ戦争が終わらない?」

昔 → 同じ日本人同士でもこんなに矛盾を生むのに、世界に目をやれば、もっともっと、ぶっとんだヤバイ奴がいるだろう。血を見て楽しい奴とか、それも価値観の違いなのか???いや、そんなわけない。いや、何が正しくて何が間違っているかわからないな・・・。という「俺」の経験値の中での想像力。

今 → 宗教、民族、資源・・・価値観の違いは話し合いで解決できないと戦争で解決するのか・・・法律のJIS規格ほしい。ほんま冷静になろうや。そこに正義ある?

 

 

このように「この世は矛盾だらけだな」と25歳くらいまで、ずっと感じていました。

今でも『矛盾』は感じますが、それが『個人的な捉え方』と『集団的な捉え方』で生じた矛盾であれば、自分の中で消化できるようになりました。これは私の中では、かなりの成長であり、今なら尾崎豊氏に「集団的な真実」の存在を教えてあげられそうな気がします。

 

「この矛は、どんな盾をも貫く」

「この盾は、どんな矛をも防ぐ」

このセールストーク。

 

一応、今でもツッコみますね。「その2つ、どっちが強いねん!」って。

その人が、「矛屋」と「盾屋」を別々に経営してたら問題ないですね。

でもその会社が連結決算だったら・・・まぁどうでもいいですかね。

 

こういった矛盾が『個人的』な問題なら許せないというか、その人を嫌いになりますね。信用できない。

「昨日は徹夜したで、しんどいわ。」

30分後くらいに

「昨日の地震まったくわからんかったわ。俺寝てたらまったく起きないのよ。」

みたいな事をいう人。

 

しかし矛盾が消化できるようになったとはいえ、やはり気持ちのいいものではないので、スカっといきたい、自分の聖域を護りたいのは確か。しかし清濁を呑みこむ度量も欲しいところ。

 

 

社長になった今、個人的な判断と集団的な判断の間で、その落差に悩みながら、自分ではない何かの為に、ぶれずに判断することを心がけています。

 
【社長ブログ】「祝婚歌」
2014-01-06

先日、同級生の結婚式に出席させていただきました。ご両親、同級生、会社の方に心からの祝福を受ける素敵な式でした。その会社の社長の祝辞の中に、吉野弘さんの「祝婚歌」がありました。印象に残ったので、ご紹介させていただきます。

 

二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは

長持ちしないことだと

気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

二人のうち どちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そしてなぜ 胸が熱くなるのか

黙っていてもふたりには

わかるのであってほしい

 

以上なんですが、これに自分の感想を加えてみます。

 

二人が睦まじくいるためには

(ココが目的。会社を経営するためには、とかオリンピックにでるためには、でないところに注意。あくまで対人関係においてという意味だと思う。)

 

愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは

長持ちしないことだと

気づいているほうがいい

(個人的には立派を目指す方が偉大だと思う。あくまで己を磨くことは怠らず、他人に気を使わせないのが大切だと思うので。)

 

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

(パーフェクトを目指す人の横にはいたくないのは確かですねぇ。気を使うわ。そういう空気感を出さなくても、しぐさや、ほんの一言で感じてしまうので。でも一緒に仕事をするなら面白いかもしれないですね。)

 

二人のうち どちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

(フリでもいいですね。「ずっこける」の「ずっ」って何?調べると「ずりこける」から転じて「普通の状態から外れる」だそうです。)

 

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

(原因は常に我にあり。別の言い方で「わしが、わりぃ。」この観点に立たないとなかなか改善策が見いだせないです。当社の今期スローガンの中にも「原因は 自分にあると考えよう!」という一文があります。)

 

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

(★★★ ココにズキュンと響きました。端的に論点を整理するために知らない間に、ドヤ顔をしてたかもしれないです。心のドヤ顔を・・・)

 

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そしてなぜ 胸が熱くなるのか

黙っていてもふたりには

わかるのであってほしい

(仲のよい人に、なぜ?の理由を詳細にわたって聞くほど野暮なものはないですね。よく考えてみると、一緒にいて楽しい人や、好かれてる人って、他人の「理由」を「なぜ?」と口にすることなく、わかってくれる人かもしれないです。)

 

こんな感じです。
 
【社長ブログ】『甲 午 -キノエウマ-』
2014-01-06
新年明けましておめでとうございます。謹んで新春のお慶びを申し上げます。

神社の神主さんが年始の挨拶で「今年はキノエウマ。ウマは尻下がりと言われていますが・・・名馬に癖あり。がんばってください。」と言われたのを聞き間違えて、今年はヒノエウマだと思っていました。しかし、子どもの頃からヒノエウマは火災が多い年、じゃじゃ馬娘というイメージがあったので、「エピソードも豊富なのに妙にシンプルな挨拶が多いなぁ。」、「もう少し巷で話題になってもいいのになぁ。」なんて感じていました。で、たまたま調べると丙午(ヒノエウマ)ではなく甲午(キノエウマ)でした。(――〆)あぶねーっ!! 知ったかするところでした((+_+))

で、インスタントな知識で人に語るのが恥ずかしいので、私に「多角的・長期的・根本的」に考えるヒントをいただいた陽明学の大家である安岡正篤の「干支の活学」という本を参考にしてみました。
   
「甲」は(キノエ)は「草木の芽が殻を破り頭を出した象形文字」であり「旧体制が破れて革新が始まる」という意味だそうです。「午(うま)」は正午という文字にあるように、「太陽が最も高い場所にある」ということで、絶頂ってことですね。ただ絶頂の後は下がる一方ってことみたいです。陰陽五行説をまんま信じていないですけど、年を経るごとにスピリチュアル的なものも大切にしたいと思うのも確かです。

弊社の年始に次の様な挨拶をしました。
「できる」人はできる。「できない」人はできない。
できる人は当たり前にやっていることでも、それを、できない人にとっては血の滲む努力が必要で、ともすればそこで諦めてしまう。
そこで諦めずに這いあがった人が、初めて成就する。
世の中の事柄は、ほとんどがこういう状態ではないでしょうか。

小学生の時50mを7秒台で走れる子は元から当たり前に走れていました。(さほど努力をしたとは思えない。)でも、10秒台の子が7秒台を目指すのは、それはそれはかなりの苦労が予想されます。フォームの改善やら、筋力増強やら、シューズを変更・・・枚挙に暇はありませんが、まぁ大変なことです。

本文から外れますが、50mを11秒でしか走れなくたってかまわない。君には勉強ができるからいいではないか。君って存在はOnly One なんだからサ!っていうのも少し違うような気がします。決められた目標であろうが、自分で決めた目標であろうが、それに向け、まず一生懸命に取り組む姿勢が大切ですね。(けっこう人って見てますから(笑))そして、全体をなんとなく頑張るのではなく、具体的に1つひとつに集中しクリアしていく。このプロセスが大人になってから、必ず訪れる未曾有の困難にぶれない精神の保ち方の1つではないでしょうか。また、元々できる人は「センスいいね。」「アイツはできるし・・。」で終わってしまいますが、這いあがった人は「アイツはスゴイ。」と人から信頼と尊敬の念を抱かれます。私自身できてるわけじゃないですけどね(-.-) ちょっと偉そうですね。
ただ、どちらが成果として表れやすいかというと、得意なものを楽しくやっていく方ですね。(ココが若者が欧米合理主義に傾倒する理由だと思う。)

「できる」人から見たら余裕、「できない」人から見たら、かなりの困難。その困難の前にほとんど跪きますよ。それは、今まで自分自身を「できない」人とは感じていないからです。経験不足からくる独善的な自我。困難にぶつかって初めて頑張れない「自分」に気づき心が折れます。世に言う「自分に負ける」というやつです。

人はなかなか弱いものです。人の助けが無いと自分一人だけでは、なかなか頑張れません。また目標を掲げないと進むベクトルさえ見失いそうになります。困難に打ち勝つ=精神的成長を遂げるには「仲間」と「目的」が必要というわけです。

年頭に際し、弊社では企業理念を今一度紐解き、お客様のために誠意をもって一生懸命頑張る事を誓い、仲間を大切にし、新たな年の目標を各々が持つことの意義を説きました。

1月に通常国会、名護市長選挙、2月には東京都知事選挙、3月にはTPP妥結?4月には消費税増税・・・と国の根幹に関わる事象が目白押し。地方都市に埋もれず大局を見据え、今から準備し、12月に向かうほど頑張りたいと思います。

本年も変わらぬご愛顧の程、宜しくお願いを申し上げます。
 
【社長ブログ】『キャッツアイとかルパンの真逆は処罰の対象です』
2013-12-04
いちいち細かいトコまで見ないですから。
契約社会ってイヤなんですよね。

でも契約しておかないと微妙な状況になることもあります。
「え?!この損失はコッチがかぶるのか?」

契約は事前に約束を結ぶ証明であり、そのためには事前に未来を想定する想像力が必要とも言えます。

リアルな未来を描いた人間、また、その重要性に気づいてリアルに未来を描いた人間の残した偉大な手法をパクる人間。

後者の要領のイイ人間に、さも未来を想定したみたいな顔されるのが、好きじゃあないですけど、まあ世界はそういう風に回らざるを得ないのも理解できます。

先週の金曜日から、急激に1日に100件くらい携帯にイタズラメールが来始めました。
聞きたいですけど、この手法に引っかかる人っています?

「どんだけ要領悪いねん!」

自動送信という面では時間とコストはいらないんでしょうけど、ターゲットにたどりつくまでに多くの人の心を害します。

『キャッツアイとかルパンの真逆です。』

あと気軽なアプリをダウンロードしたら、Googleじゃない変な画面にしてくるヤツ。

「このパソコンは危険です!」みたいな文字がチッカチッカ・・・・

「誰が頼んでんねん!」

これらに有効な対処法は無いようです。

コレらは国をあげての処罰の対象です。

そう思うとアップルストアは偉大ですね。変なウィルスや余計なモンが引っ付いてこないですから。

個人のことだけ考えると自由主義に近い私ですが、こういう時は大きな政府を望んでしまいます。

神の見えざる手が「待った!」をかけるまでの時間が無駄だからです。

 
【社長ブログ】「一番言われたくない言葉」
2013-09-18
言われたくない言葉の代表格に「汚い奴」が挙がります。
 
 
その昔、興味は無かったのですが、彼女のすすめで「トロイ」という映画(実際のトロイア戦争の史実とは異なる、人間色を濃く出した作品)を見た時です。
 
「トロイ」は、オーランドブルーム扮するトロイの王子と、敵国スパルタ王妃の禁断の恋の話なんですが、色々経緯があってトロイ軍とスパルタ軍が対峙する場面があります。
 
スパルタ王は完全に怒ってるわけですよ、「この間男め!人の妻を寝取りやがって~っ!!許せん!!勝負しろ!」と。
 
オーランドブルームは、間男にふさわしくビビって震えてるんです。
 
しかし、お兄さんであるヘクトルに「大戦争になる前に、男らしく1対1ではよ戦いなさい!」的に促されます。このお兄さん、トロイの長兄王子なんですが、弟と違い男らしいカッコイイ感じなんです。
 
そこで、ヘクトル兄さんが仲介人的な立場で、スパルタ王に「うらみっこなしの真剣勝負」を約束をして、オーランドブルームとスパルタ王のタイマンが始まります。
 
当然一方的です。オーランドブルームがあまりにもカッコ悪いくらいにボロボロにされます。あまつさえ命乞いをします。
 
しかし真剣勝負ですから、殺そうとします。スパルタ王が剣を振りかざした、その時です。
 
「グサッ!!」
 
と、なんと仲介人的立場で真剣勝負を約束したはずのヘクトル兄さんが、スパルタ王を刺殺したんです。弟の命が奪われるのを見ていられなかったのでしょう。そのまま双方の軍が交わり大戦争です。いっぱい死にます・・・・・。
 
 
この話は、なんなんでしょう?
 
まず「え!武士道語ったヘクトル兄さん、汚~っい!!」って感情がありました。
「約束って何なの?」 「アングロサクソンの正義感ってコレなん?」「価値観合わないわ!」「こわいわ!」って思いました。
 
そして、次の感情で、いやいや肉親が目の前で死にいくのを傍観できないよなって思いました。
 
 
答えが無いんです。
 
 
で私は何が言いたいのか。
 
私自信は「汚い奴」とは言われたくないので、「なるべーく、極力、汚いことはしたくない!」
でも、「人によって、汚いレベルって違うよね?」というか「自覚症状が在るか、無いかという問題」ですね。「コレって教育することで倫理観の相対値をコンセンサスはかれるのかな?」「ある程度の倫理観の共通認識ってあった方がいいよね!日本民族的に!」ということが言いたかったのです。
 
 
今日たまたま会話の中で、「なぜ美しく在りたいのですか?」と言われたので、この映画を思い出しました。
 
 
 
そうですね・・・親父にしてもらったように、子どもたちの為ですかね。
 
と答えてました。
 
【社長ブログ】「ESとCS」
2013-05-31

今日は弊社の決算日です。

棚卸をして、からのBBQ。

また新たな期に向かい、頑張っていこうと思いを新たにする節として、ESとCSを考えてしまいます。

「お客様のために」
よく聞くフレーズですがその通りだと思います。

それをスローガンにすることで最終目的の社員の幸せがあるのだと思います。

「お客様は神様」
これもよく聞くフレーズで、神様くらいお客様を大切にしなければならないという意味でしょうが、いまいち釈然としません。

どちらかというと「お客様なくして我々なし」
という共同体のようなイメージをもっています。

ですからCSはスローガンというか、掲げれば一番効果の上がる目標であり、ESは最終目的であるという順番の問題だと考えるようにしています。

BBQの冒頭挨拶では、やはり来期も「お客様のために」がんばろうと言うことを決めています。

これからも引き続いてのご愛顧をよろしくお願いいたします。

 
【社長ブログ】「八戸Cityは夢幻の如く」
2013-04-30
先日遠く八戸に行った。
 
車と新幹線を併用し9時間。
 
空港が在るって知らなかったんですもん。
 
 
 
駅を降りると、とっても寒かった。
 
街行く人は みんなコートを着ていた。
 
もう春なのに。
 
青森は寒いって知っていた。
 
ネットの予報を見ていたから。
 
三寒四温って言いますし。
 
でも、ここまでの寒さとは予報を見る限り実感できませんでした。
 
コート片手に歩く覚悟が無かった。
 
「寒がり」って思われたら 恥ずかしいですからね。
 
 
 
キラリと光ったのは氷の粒。
 
ホテルの場所は知らない。
 
「多分徒歩10分くらいかな。」
 
タクシーのおっちゃん の会話は とってもあったかい。
 
「10分は無理だよぉ。30分はかかるよぉ。繁華街から栄え始めて 後で新幹線ができたんだよぉ。」 
 
歩いてたら あてどなし。
 
 
 
道中 桜の木が並んでた。
 
多分 キレイな花道だったんだな。
 
「桜チル・・・って寂しいね。」
 
SAMURAIの生き様を、現代人の自分と重ねた独り言。
 
「散ったんじゃないですよ、まだ咲いていないんですよ。」
 
切り返しが早いんだよね・・。
 
 
 
僕の見てる世界は正しいのだろうか?
 
 
 
よーし やっぱり『体験主義者』でいこう。
 
【社長ブログ】違憲判決さえも『ワシがわりぃ(´∀`)』の精神で
2013-03-29
 
私は1977年、昭和52年生まれで、今年で36歳を迎える。

精神性の根底を育む思春期の頃、思想的に所謂『左』かかった読み物が多く、教育も然り、社会全体がそういった風潮だったように想う。


今回の広島高裁の1票の格差の「違憲判決」。

『貧すれば鈍する』という言葉は、個ではなく全体を語る上で的を得ていると想うが、経済の行き詰った先進国である我が国日本の中枢は、紛うことなくグレーゾーンを選択した。

法治国家とはいえ、罰されなければ先送りする。「だって、仕方が無いやん。」という人間が誰しも持っている弱い心である。(しかし政治家や教育者はこのラインを突破した倫理観が欲しい!)

経済合理主義の中で生きる我々商売人は、これを悪とは断じないが、権力の分散は必要だと想う。

 
 
格差の是正で問われるのは国民の責任であり、資質である。

組織論上、理論上、格差は是正されるべきであるが、現実的に今回の判決で国民の生活は変わらない。

ただ2.43倍の格差は「なめてるな。」というルールを犯した事による罰でしかない。

何ら変わらない生活をおくる国民の意識はおそらく何も変わらない。

 
 
国民一人ひとりが責任を持ちたくとも、選ぶべき基準の提示が少な過ぎるように想う。

これでは一部の人間のみしか責任を持ちにくい環境である。

私は経営者であり、トップに立つ一人として意識しているのは、

ケネディ大統領の名言の

『Ask not what your country can do for you, but what you can do for your country.』

(国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために何ができるか、問いかけてください。)

の逆で、統治機構は思いやりの心と、鋭いスキルを持って、全体のモチベーション、スキル、思想を上昇させる環境づくりを整えることに注力しなければならないということである。

 

強さ、厳しさの伴わない、生ぬるい『左』的な愛では誰も救えない。

かと言って日本人らしさの1つである『もののあはれ』を無視した所謂『右』的な行動には嫌悪も覚える。

ただ危機的な状況である程、後者が力を持ってしまうのが現実である。

実力か運か、権力を握った人間は、今一度「思いやり」の心と、ここまでやるのかという自分の限界を超えた「行動力」を持ちたい。
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