この『集団的』な捉え方、考え方の『存在』を知りえたからこそ、この世に無常を感じず諦観せずに生きているんだと思う。
知らなかったんです。『集団的な考え方』を。がんばって『個人的な考え方』を伸ばして、解釈してこの世の中を捉えようと足掻いていたんですね。まぁ、そういう学校教育だったといえばそうなんですが、どれだけ思いを巡らせても、所詮は『個人的』な思考の範囲内だったんです。
【例】
「なぜ運動会の行進は1.2.3.4.5の5で止まるのか?」
昔 → 「2」で止まれる「俺」=「3.4.5」の無駄。
今 → まぁ「5」くらいがちょうど全体がバシっと止まれるのかな。止まれない人もいるし、そうなったら全体として見栄えも悪いしねぇ。
「なぜ遠足の経路は遠回りなのか?」
昔 → 確かに近い道は険しいが「俺」は、なんなく進める = これくらいの険しさを歩けない奴はむしろ社会生活ヤバいだろ?
今 → 万が一でもケガしたら、責任問題がめんどくせぇー。サバイバル的なワクワク、楽しさを差し置いても、めんどくせぇーで仕方ねぇー。
「なぜ政治家は平然とした顔で嘘をつくのだろうか?」
昔 → 嘘がバレて逮捕される = 感受性のバリバリ高い思春期の「俺」には考えられないわ。面の皮の厚い、心の壊れた、家柄だけがよくて能力の無い鈍感な人間が政治をやってるのか?はぁぁぁこれじゃあ日本はよくならんわ。
今 → 党の命令なのかな。貸しつくってんのかな。民衆の人気よりも、派閥に擦り寄らないと選挙に通らないのかな。
「なぜ不始末を起こした会社のトップが謝っているのだろうか?」
昔 → いやいや、その不始末はどう考えても下っ端の人間がやったことで、トップは一応は謝罪するけど本当は「俺は関係ねぇ、悪くねぇけどな、ふんっ!」って「俺」なら思うな。
今 → 監督責任
「なぜブサイクな子供をカワイイ❤というのか?」
昔 → 「俺」ならブスはブス、カワイイはカワイイって言うけどな。
今 → 「カワイイ❤」って言いますね。倫理的というよりも子供は宝という観点で。
「なぜ戦争が終わらない?」
昔 → 同じ日本人同士でもこんなに矛盾を生むのに、世界に目をやれば、もっともっと、ぶっとんだヤバイ奴がいるだろう。血を見て楽しい奴とか、それも価値観の違いなのか???いや、そんなわけない。いや、何が正しくて何が間違っているかわからないな・・・。という「俺」の経験値の中での想像力。
今 → 宗教、民族、資源・・・価値観の違いは話し合いで解決できないと戦争で解決するのか・・・法律のJIS規格ほしい。ほんま冷静になろうや。そこに正義ある?
このように「この世は矛盾だらけだな」と25歳くらいまで、ずっと感じていました。
今でも『矛盾』は感じますが、それが『個人的な捉え方』と『集団的な捉え方』で生じた矛盾であれば、自分の中で消化できるようになりました。これは私の中では、かなりの成長であり、今なら尾崎豊氏に「集団的な真実」の存在を教えてあげられそうな気がします。
「この矛は、どんな盾をも貫く」
「この盾は、どんな矛をも防ぐ」
このセールストーク。
一応、今でもツッコみますね。「その2つ、どっちが強いねん!」って。
その人が、「矛屋」と「盾屋」を別々に経営してたら問題ないですね。
でもその会社が連結決算だったら・・・まぁどうでもいいですかね。
こういった矛盾が『個人的』な問題なら許せないというか、その人を嫌いになりますね。信用できない。
「昨日は徹夜したで、しんどいわ。」
の30分後くらいに
「昨日の地震まったくわからんかったわ。俺寝てたらまったく起きないのよ。」
みたいな事をいう人。
しかし矛盾が消化できるようになったとはいえ、やはり気持ちのいいものではないので、スカっといきたい、自分の聖域を護りたいのは確か。しかし清濁を呑みこむ度量も欲しいところ。
社長になった今、個人的な判断と集団的な判断の間で、その落差に悩みながら、自分ではない何かの為に、ぶれずに判断することを心がけています。
先日、同級生の結婚式に出席させていただきました。ご両親、同級生、会社の方に心からの祝福を受ける素敵な式でした。その会社の社長の祝辞の中に、吉野弘さんの「祝婚歌」がありました。印象に残ったので、ご紹介させていただきます。
二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい
立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうち どちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そしてなぜ 胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには
わかるのであってほしい
以上なんですが、これに自分の感想を加えてみます。
二人が睦まじくいるためには
(ココが目的。会社を経営するためには、とかオリンピックにでるためには、でないところに注意。あくまで対人関係においてという意味だと思う。)
愚かでいるほうがいい
立派過ぎないほうがいい
立派過ぎることは
長持ちしないことだと
気づいているほうがいい
(個人的には立派を目指す方が偉大だと思う。あくまで己を磨くことは怠らず、他人に気を使わせないのが大切だと思うので。)
完璧をめざさないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
(パーフェクトを目指す人の横にはいたくないのは確かですねぇ。気を使うわ。そういう空気感を出さなくても、しぐさや、ほんの一言で感じてしまうので。でも一緒に仕事をするなら面白いかもしれないですね。)
二人のうち どちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
(フリでもいいですね。「ずっこける」の「ずっ」って何?調べると「ずりこける」から転じて「普通の状態から外れる」だそうです。)
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで疑わしくなるほうがいい
(原因は常に我にあり。別の言い方で「わしが、わりぃ。」この観点に立たないとなかなか改善策が見いだせないです。当社の今期スローガンの中にも「原因は 自分にあると考えよう!」という一文があります。)
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気づいているほうがいい
(★★★ ココにズキュンと響きました。端的に論点を整理するために知らない間に、ドヤ顔をしてたかもしれないです。心のドヤ顔を・・・)
立派でありたいとか
正しくありたいとかいう
無理な緊張には色目を使わず
ゆったりゆたかに
光を浴びているほうがいい
健康で風に吹かれながら
生きていることのなつかしさに
ふと胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そしてなぜ 胸が熱くなるのか
黙っていてもふたりには
わかるのであってほしい
(仲のよい人に、なぜ?の理由を詳細にわたって聞くほど野暮なものはないですね。よく考えてみると、一緒にいて楽しい人や、好かれてる人って、他人の「理由」を「なぜ?」と口にすることなく、わかってくれる人かもしれないです。)