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違憲判決さえも『ワシがわりぃ(´∀`)』の精神で

2013-03-29
私は1977年、昭和52年生まれで、今年で36歳を迎える。

精神性の根底を育む思春期の頃、思想的に所謂『左』かかった読み物が多く、教育も然り、社会全体がそういった風潮だったように想う。


今回の広島高裁の1票の格差の「違憲判決」。

『貧すれば鈍する』という言葉は、個ではなく全体を語る上で的を得ていると想うが、経済の行き詰った先進国である我が国日本の中枢は、紛うことなくグレーゾーンを選択した。

法治国家とはいえ、罰されなければ先送りする。「だって、仕方が無いやん。」という人間が誰しも持っている弱い心である。(しかし政治家や教育者はこのラインを突破した倫理観が欲しい!)

経済合理主義の中で生きる我々商売人は、これを悪とは断じないが、権力の分散は必要だと想う。



格差の是正で問われるのは国民の責任であり、資質である。

組織論上、理論上、格差は是正されるべきであるが、現実的に今回の判決で国民の生活は変わらない。

ただ2.43倍の格差は「なめてるな。」というルールを犯した事による罰でしかない。

何ら変わらない生活をおくる国民の意識はおそらく何も変わらない。



国民一人ひとりが責任を持ちたくとも、選ぶべき基準の提示が少な過ぎるように想う。

これでは一部の人間のみしか責任を持ちにくい環境である。

私は経営者であり、トップに立つ一人として意識しているのは、

ケネディ大統領の名言の

『Ask not what your country can do for you, but what you can do for your country.』

(国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために何ができるか、問いかけてください。)

の逆で、統治機構は思いやりの心と、鋭いスキルを持って、全体のモチベーション、スキル、思想を上昇させる環境づくりを整えることに注力しなければならないということである。



強さ、厳しさの伴わない、生ぬるい『左』的な愛では誰も救えない。

かと言って日本人らしさの1つである『もののあはれ』を無視した所謂『右』的な行動には嫌悪も覚える。

ただ危機的な状況である程、後者が力を持ってしまうのが現実である。

実力か運か、権力を握った人間は、今一度「思いやり」の心と、ここまでやるのかという自分の限界を超えた「行動力」を持ちたい。
 
 
 
 
 

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