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「矛 盾 ~個人的と集団的~」

2014-09-25
この『集団的』な捉え方、考え方の『存在』を知りえたからこそ、この世に無常を感じず諦観せずに生きているんだと思う。



知らなかったんです。『集団的な考え方』を。がんばって『個人的な考え方』を伸ばして、解釈してこの世の中を捉えようと足掻いていたんですね。まぁ、そういう学校教育だったといえばそうなんですが、どれだけ思いを巡らせても、所詮は『個人的』な思考の範囲内だったんです。



【例】

「なぜ運動会の行進は1.2.3.4.5の5で止まるのか?」

昔 → 「2」で止まれる「俺」=「3.4.5」の無駄。

今 → まぁ「5」くらいがちょうど全体がバシっと止まれるのかな。止まれない人もいるし、そうなったら全体として見栄えも悪いしねぇ。



「なぜ遠足の経路は遠回りなのか?」

昔 → 確かに近い道は険しいが「俺」は、なんなく進める = これくらいの険しさを歩けない奴はむしろ社会生活ヤバいだろ?

今 → 万が一でもケガしたら、責任問題がめんどくせぇー。サバイバル的なワクワク、楽しさを差し置いても、めんどくせぇーで仕方ねぇー。



「なぜ政治家は平然とした顔で嘘をつくのだろうか?」

昔 → 嘘がバレて逮捕される = 感受性のバリバリ高い思春期の「俺」には考えられないわ。面の皮の厚い、心の壊れた、家柄だけがよくて能力の無い鈍感な人間が政治をやってるのか?はぁぁぁこれじゃあ日本はよくならんわ。

今 → 党の命令なのかな。貸しつくってんのかな。民衆の人気よりも、派閥に擦り寄らないと選挙に通らないのかな。



「なぜ不始末を起こした会社のトップが謝っているのだろうか?」

昔 → いやいや、その不始末はどう考えても下っ端の人間がやったことで、トップは一応は謝罪するけど本当は「俺は関係ねぇ、悪くねぇけどな、ふんっ!」って「俺」なら思うな。

今 → 監督責任



「なぜブサイクな子供をカワイイ❤というのか?」

昔 → 「俺」ならブスはブス、カワイイはカワイイって言うけどな。

今 → 「カワイイ❤」って言いますね。倫理的というよりも子供は宝という観点で。



「なぜ戦争が終わらない?」

昔 → 同じ日本人同士でもこんなに矛盾を生むのに、世界に目をやれば、もっともっと、ぶっとんだヤバイ奴がいるだろう。血を見て楽しい奴とか、それも価値観の違いなのか???いや、そんなわけない。いや、何が正しくて何が間違っているかわからないな・・・。という「俺」の経験値の中での想像力。

今 → 宗教、民族、資源・・・価値観の違いは話し合いで解決できないと戦争で解決するのか・・・法律のJIS規格ほしい。ほんま冷静になろうや。そこに正義ある?





このように「この世は矛盾だらけだな」と25歳くらいまで、ずっと感じていました。

今でも『矛盾』は感じますが、それが『個人的な捉え方』と『集団的な捉え方』で生じた矛盾であれば、自分の中で消化できるようになりました。これは私の中では、かなりの成長であり、今なら尾崎豊氏に「集団的な真実」の存在を教えてあげられそうな気がします。



「この矛は、どんな盾をも貫く」

「この盾は、どんな矛をも防ぐ」

このセールストーク。



一応、今でもツッコみますね。「その2つ、どっちが強いねん!」って。

その人が、「矛屋」と「盾屋」を別々に経営してたら問題ないですね。

でもその会社が連結決算だったら・・・まぁどうでもいいですかね。



こういった矛盾が『個人的』な問題なら許せないというか、その人を嫌いになりますね。信用できない。

「昨日は徹夜したで、しんどいわ。」

の30分後くらいに

「昨日の地震まったくわからんかったわ。俺寝てたらまったく起きないのよ。」

みたいな事をいう人。



しかし矛盾が消化できるようになったとはいえ、やはり気持ちのいいものではないので、スカっといきたい、自分の聖域を護りたいのは確か。しかし清濁を呑みこむ度量も欲しいところ。





社長になった今、個人的な判断と集団的な判断の間で、その落差に悩みながら、自分ではない何かの為に、ぶれずに判断することを心がけています。
 
 
 
 
 
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