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「挨拶は目を見ることが大切だよ運動」

2016-08-12
■ 最近の若者は挨拶をしなくなったのか?
 「最近の若者は挨拶をしなくなった。」と、まぁまぁ耳にします。
でも実は注意深く観察すると、おっさん達もあまり挨拶をしません(笑)。世代の問題ではなく、個人の問題ということです。しかし、38歳の私が語るのも変ですが、昔の方が「挨拶をすることは当然」という考え方が社会全体に浸透していた様に思います。
 戦後は日本社会全体が「豊かになる」という一つの目標に向かって一丸と猛進していて、挨拶に限らず常識というものが国民全体で比較的に似ていたのではないでしょうか。共通の認識があったから、例外な人に対して断罪しやすい環境だったように思います。
 時代の変化に伴い、ごく一般的な「コラコラ。ちゃんとせんな先生に叱られるぞ。」という注意も、「ちゃんと」という観念が今や違ってきていて困ります。「先生」も、たまに一般人よりも非常識な人がいて困ります。そんな人に「叱られても」何とも思いませんなんて・・困ったもんです(笑)。社会通念は変化するのです。
 今、授業参観日に子供に「なんで挨拶しなくちゃならないの?」と聞かれた先生は「挨拶はするものなの!」とは、なかなか言いづらい環境です。まして殴ってでも挨拶させるなん許されませんし。一昔前ならそういった躾もよく目にしました。この20年程で、良くも悪くも生き方が多様化しきたわけです。
 「ボス型社会からリーダー型社会へ」なんて言われてますけど、まだまだ田舎地域や裏社会にはボスが健在です。とは言え、ボスになる人は基本的に能力が高く、影響力の強い、筋を通した信頼の厚い人間です。そのボスが今の世相を憂い「最近の若者は挨拶をしなくなった。」というのです。ボスは常に社会情勢に敏感ですから。きっと昔から挨拶のできない大人もいたのだと思います。ただそういう大人は“できない奴”、“ダメな奴”、“よくわからない奴”というレッテルが貼られていたのだと思います。今はレッテルが貼れず、挨拶ができなくても、“けっこうできる人”がいますから、ボスはイライラしているのではないでしょうか。
 「仕事ができない奴はダメだ」という概念は「仕事=人格」だった時代の言葉かもしれません。平和になった今、パソコン社会になった今、人格に多少問題があっても飯を食うくらいはできる社会ですから。人格形成を大切にしていた日本で、挨拶もできない金持ちをどう断罪するのか「何が是か簡単には判断しかねる社会」になってきています。
 あと、知らない人に挨拶をすると危険ということもあります。もうこの段階で日本も格差社会です。誰がヤバイか特定できない場合や地域に認識されない場合は、ビバリーヒルズに住むしかありません。
 まあいずれにせよ、挨拶は皆がするもの、挨拶できない奴はダメな奴という社会から、挨拶が必要だと思う人は挨拶するし、したくない、する必要がない人はしない風潮を許容する社会になってきています。

■ 幼少期の挨拶
 子供の頃から先生や親に「挨拶しなさい。」と言われて育ってきました。「なんで?」なんて思わずに当たり前に挨拶をしてきたわけです。挨拶立ち番のように朝早く学校へ行き、登校してくる友達に元気よく「おはようございます!」と挨拶をして、相手の挨拶を促すわけです。当時は特段意識してませんでしたが、振り返ると「少しめんどくさいな。」とは感じていたように思います。大人達に褒められるし「まっ、いいか。」くらいで挨拶を大きな声でしてきました。
 しかし、青春期以降なんだか“こっ恥ずかしくて”だんだんと挨拶が出来なくなってきます。女の子の目を見るのも恥ずかしい。もう誰とも目線を合わせたくない。何故なのか。きっと心を開きたくなかったんでしょう。何故なのか。自分の本音をぶつけたにも関わらず誰も理解してくれなかったり、興味を示してくれなかったという、今から思えば小さな挫折の積み重ねなんでしょうけど。こんなに人から受け入れらえないということは自分が失格なんだなとか思ってしまうわけです。10回成功してるのに、1回の失敗で挫折してしまうところが、青春です。数字よりも、感性ベースです。
 社会人になっても同じでした。しかし挨拶はできました。「社会人なんだから」という常識に背中を押されていたんです。挨拶=常識が自分の中にあったことは非常に助かりました。教育や躾の賜物です。しかし、心の奥底では、なんかメンドクサイし嫌だなとは思っていました。そんな精神的に細かい問題を、先輩になんとなく相談してみても「大人なんやから。」とか「社会人なんだから。」という言葉が返ってくるだけです。「そうですよね。」「そうですかね。」と返答するだけで、腑には落ちません。これ以上質問をすると逆ギレされたり、難しい奴と認識されるのも叶わないので「この人、こういうところアホだな。」と自分の中で処理していたわけです。
 幼少期は、大きな声で挨拶をすると大人に褒められるという満足感から、挨拶をしていたように思います。青年期は社会人だから普通やなという社会的信用を増すための常識に縛られて挨拶をしていました。それらは、いわゆる外的モチベーションであって、ご褒美が無くなると続きません。それを府に落とし、内的モチベーションに変えれば大人になっても継続可能なわけです。
 大人になってから“変わろう”と思ってもなかなか変われない。その意味や意義、そして効果を推し量って「変わるに値するか」値踏みしてしまう。そこで挨拶の意味を、大人になった今調べてみようと思います。

■ 挨拶の意味と意義
 意味を考えてから、意義を考えようと思います。まずは意味から。  
挨拶って普段使わない漢字です。語源としては「挨」も「拶」も押すという意味で、禅宗において相手の悟り具合を推し量ることを「一挨一拶」と言ったそうです。ん? 現代の挨拶と関係あるのかな?って感じです。  
 挨拶と言えば「お早うございます。」「こんにちは。」「こんばんは。」などが代表例です。「こんにちはございます。」「こんばんはでございます。」とは言いません。こんにちは、こんばんはに続くのは「時節」そして「相手の調子」を尋ねることのようですが、省略されてるんですね。手紙でよく見ます。日本人は天気(日柄)を気にして、相手を気にする繊細で、自然と共存してきた民族なのかと思ってちょっと誇らしい気分になります。  
 そういえば、おじいちゃんが近所のおばあちゃんに会った時に「どこまで行きなるん?」と尋ねられ「ちょいとそこまで。」と答えてました。すると、おばあちゃんが「ぼちぼちな。」と更に返答していました。よく考えたら何?会話になってないけど成立しているという・・・。そう考えると挨拶とは相手の調子を伺う「思いやりを表すこと。」なのかもしれません。挨拶は、それ自体に意味は無いけれど、その効果として皆が何故か「気分がよくなる」という普遍的なものかもしれません。
 挨拶という概念は世界共通だそうです。タイには以前「サワッディー(こんにちは)」という挨拶はなかったらしいですが、「どーも。」「飯くった?」的な挨拶言葉はあったそうなので世界共通と言ってもいいでしょう。
 初対面の挨拶に「握手」がありますが「武装解除」の意味であり、ヤバイ武器とか持ってませんよということなのですね。わかりやすく言うと挨拶は「自分が心をひらき、相手も心を開きあう関係をつくる動作」と言えます。
 試しに、動物はどうなのか調べてみました。けっこう挨拶してます。昆虫もやってます。個体としての健康状態を表現したり、エサの位置を教えたり、エサのクオリティを伝えたりと、人間よりも生活に密着した挨拶となっていました。
→参考URL http://logmi.jp/92644

■ 会社で挨拶する意義
 挨拶は「自分が心をひらき、相手も心を開きあう関係をつくる動作」と言えるので、会社内でもものすごく意義深いものであります。当然、企業理念やビジョンやミッション、人、モノ、金、情報、戦略戦術は大切ですが、実際に会社を動かすのは人であり、人と人の狭間に信頼関係があるのと無いでは、結果がかなり違ってきます。この信頼関係を築く第一歩目が挨拶ではないでしょうか。
 単純な話ですが、自分が好きになれば、相手も好きになります。自分が心を開けば、相手も心を開きます。勿論、中身が問題ですが、信頼関係の構築の第一歩目として挨拶はかなり上位にランクインしてきます。
 弊社では第40期の行動指針に「相手の目を見て自らが笑顔で挨拶します」と決めています。Give & Take 自分からGive しないとTakeは貰いにくい。自ら先手で挨拶をすることは大切です。慣れると余裕でできます。だから頭で論理的に「挨拶はするもの」と処理しないように「目を見て」を付け足しています。また挨拶は義務と思わないように本来の心を開くという意味を込めて「笑顔で」を付け足しています。  
 3年ほど挨拶運動を会社で推進していますが、コミュニケーションが増え、良くなっている気がします。気がですが。  
 挨拶の意味や意義はともかく、効果は皆肌で感じられてるのではないかと思います。会社内では、相手の目を見て自らが笑顔で挨拶をしています。たまに忘れてる時もありますが、だいたいできています。果たして会社外ではできているのか?自らの営業戦果に関わりますから、顧客に対しては挨拶ができているでしょう。しかし、顧客以外に対してできているのか?直接的に自分のメリットにならない人にでも同じように接することができているのか?それは、営業の戦果というよりも、企業理念の最終文にある「信頼を獲得し、実りのある人生をおくります。」に関わる重要事項です。これを調査できる仕組みはないか。しかも皆が楽しみながら。企業家は数字が大切なので数字で図ってみることにしました。

■ コンビニで目を見て挨拶する  
 そうだ!コンビニ店員を挨拶対象にして調査をしよう!と試みました。その他のサービス業も考えましたが、絞ったほうが分かりやすいのでコンビニ店員限定にしました。期間は7月14日~8月4日の21日間。標本調査にならない中途半端な母数ですけど。私を含めた社員の内12名の合計13名が①コンビニに行った回数 ②自分が目を見て「ありがとう」と言った回数 ③店員が目を見て「ありがとうございました」と言った回数 でカウントしました。集計結果は・・・  

① コンビニに行った回数・・・180回  

② 自分が目を見て「ありがとう」と言った回数・・・166回  

③ 店員が目を見て「ありがとうございました」と言った回数・・・63回  

コチラが目を見て、相手も目を見てくれた確率は38.0%

となりました。  
 コンビニ店員って目を見て「ありがとうございました。」って言わないんだなというのが率直な感想です。調査をした地域にはファミリーマート、ローソン、ミニストップしかありませんので、この3社のマニュアルには「ありがとうございました。」と言いなさいはあるけれど、「目を見て」というマニュアルは無いのだなと思いました。  
 私自身は一日に2回以上はコンビニに行くのですが、コンビニに行く回数の平均は0.65回で、社員はほとんどコンビニを利用しないのだということも分かりました。  
 調査上、②をしていないと③がどうか分からないですが、180-166=14の38.0%なので約5.3回は③の回数も増えるでしょう。  
 自分がコンビニ店員の目を見なかった主な要因として「忘れていた」、「財布を見ていた」が挙がります。企業戦略においてよく「徹底」と謳っても、意識していても92%(②÷①)の出来高であり、8%くらいのロスが出るわけですから、それを数字の中に入れて予算組みをするか、うっかりミスさえ無くなるような更なるオペレーションの強化を行う必要があります。  
 さすがにコンビニ店員が「ありがとうございます。」と言わないケースは無かったですが、「目を見て」言わない要因を各ケースから社員に予測してもらうと、「身長差がある場合は目線を合わせるのがキツイのでは?」だとか「いい年をして若者に混じってコンビニで働いていることを恥じているのでは?」などが挙げられました。38%という数字ですが、人によってバラつきがあり、威圧感のある男性は目を見られにくい傾向にありました。ちなみに私は22.2%です。5人に1人しか目を見てくれません。  
 逆に何故目を見てくれたのかという要因を予測してもらいました。「行きつけのコンビニだから」、「知った人だから」とか「雑談からのありがとうございますだったから」などが挙げられました。いかに馴染みの関係が心を開いているか、雑談が心を開くかということです。商談においても初対面か固定客か、本題に入る前に雑談をするかしないかという選択で商談内容や結果が変わってくることは明らかです。  
 そういった業種に関係の無いコミュニケーションの大切さを肌で感じてくれればありがたいなと思います。

■ 運動を行うということ
 挨拶は目を見てする方がいいと私は思っている。心が開かれ、信頼関係が築かれ、そのつながりが個々の幸せにつながっていると信じているからです。でもコンビニ店員に、1回限りかも知れないお客様に対して、自分が心を開くことはかなり効率的には悪いし、必要が無いと感じてしまうだろう。仕方がないといえば仕方がない。しかし、田舎で商売をしているからということもありますが、是非とも弊社社員には目を見て挨拶をしてほしい。そう訴えかけ続けたいと思っています。
 「運動」とは、なぜそうしないといけないのかを訴えかけることであり、決して表面的に世が求めていることを満たすことではない。ニーズを把握していないのではなく、真のニーズというか、感覚より少し深いところにある上質なものを訴えなくてはならない。ガンガンに即効で冷えるクーラーが発売されると必ず売れる。しかし、それが人間にとって、地球にとっていいものなのか。企業は消費者が決めることだという倫理観を背景に、我々の健康のことなんてそこまで考えない。また「人が喜ぶ」仕組みをつくるのが企業だとか言う。確かにそうなんだけど、喜ぶって、アミノ酸の旨味成分を注入したら美味い!って喜ぶからね。長期的に、あの会社の料理を食べ続けたから健康で幸せに生きることができたなんて話は聞かないからね。濃い味のお店は流行る。でも家庭ではそんな濃い味を食べたら体に悪いと注意される。
 短期的視野が思考を短絡的にするのかもしれない。長期の幸せ(在り方、生き方)が今の購買につながる仕組みがいると思いました。
 自分の生き方やあり方を見つめ直そうとしても、なかなか難しいものだから、少しだけ先を、10年先の自分を一瞬でも想像して今を決断してほしいなぁって思って運動を展開していきます。
 何か大切なものが無くなっていきそうな予感がして、なんとか頑張って抗う。流れに抵抗することでイノベーションが起こる可能性はありますし、独自性が確立されニッチ市場に受け入れられることもあります。しかし社会全体から見ればその“何か大切なもの”は利便性や、コスト、効率により失わざるをえないことが多いように思います。流れに沿うと言えば綺麗ですし、逆らうことは愚かなことかもしれない。トレンドを、流れを掴む商売をする形態であり続ければ、苦しいことは少ないかもしれない。しかし、門を構えて商いをするということは少しくらいの逆境は当たり前に受け入れ、我慢し、時に寛容に組織を変化させないといけない。しかして正社員からパートへ、若者、学生へ、外国人へ、機械化へという流れは止められない。
 
 
 
 
 

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